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八重山関係者も8人が死亡 台湾引揚船「栄丸」遭難事故

「ぼくだけ生き残った」新川出身の糸数さん
宮古関係者ら100人以上死亡
 終戦直後の1945(昭和20)年11月1日、台湾からの引き揚げ船「栄丸」が遭難し、100人以上が死亡したとみられる「栄丸事件」に八重山関係者が少なくとも9人乗り込み、このうち8人が死亡していたことが生存者の証言で分かった。八重山関係者で1人だけ生存が確認されている那覇市古島の元高校校長、糸数長芳さん(77)=石垣市新川出身=は「八重山の人が9人乗り込み、ぼく1人だけ生き残った」と振り返った。  栄丸事件は、太平洋戦争末期の1944―45(同19―20)年に台湾へ疎開させられた先島の人たちが、終戦後に引き揚げ船「栄丸」に乗り込み、台湾の基隆沖で遭難した事件。宮古関係者が巻き込まれた事件として知られており、八重山関係者が乗り込んでいたことは、遺族や生存者のほかには、ほとんど知られていなかった。  「沖縄県史10 沖縄戦記録2」でも「100人以上が死んだ。一致しているのはその点ばかりである」と、全容解明の難しさを指摘している。  宮古出身の島尻哲夫さん(77)=那覇市首里大名=ら生存者が82(同57)年1月に呼び掛けたところ、死亡者31人、生存者12人の合わせて43人が乗り込んでいたことが確認された。このうち、八重山関係者は3家族合わせて9人が乗り込み、生き残ったのは糸数さんだけだった。  糸数さんは、44(同19)年秋に新川地区のほかの住民とともに台湾中部の台中州員林郡員林街(現在の彰化県員林鎮)へ疎開。終戦後は、台北市内で家族らとともに引き揚げを待ち、姉やその子どもなど合わせて7人とともに栄丸に乗り込んだ。  島尻さんらの呼び掛けには、さらにもう1人の八重山関係者が応じており、栄丸に乗り込んだ八重山関係者は少なくとも9人だった。  糸数さんによると、栄丸は夜に基隆を出港し、その直後から機関が故障して漂流。糸数さんは油の付いた布をさおに巻き付けて火を付け、救難を求める合図を送ったが、栄丸の転覆とともに海に投げ出された。その後、近くの岩礁に打ち上げられたところを付近にいた台湾人に助けられた。  糸数さんは「(犠牲者の家族を)ずっと供養している。(死んでしまったものは)どうにもならない。(追悼の思いは)自分の気持ちに納めておけばいいという気持ちでいる」と話していた。

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