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慰霊と平和の希求の日に

戦争の落とした一つの影

 ■年寄りを見かけないニシムラ

 先週平和の礎を訪れた。同行した1人が波照間島のコーナーの一角で「ウチは戦闘で命を落としたもの1人、マラリアで死んだものが7人いる」と話し、刻印された8人の氏名の前で長い間手を合わせていたのが印象的だった。

 戦争マラリアは数多の悲劇を生んだが、西表島南風見田への強制疎開がひき起こした波照間島民のマラリア禍もひどかった。竹富町史戦争体験記録に依ると戦時中から敗戦直後にかけての島の人口は1671人だが、その内552人がマラリアで死んでいる。中でも北部落は386人中半数の193人が命を落としている。

 帰りの車中波照間出身者は戦後ニシムラ(北部落)を訪ねると年寄りをほとんど見かけなかったと話した。体力の弱い年寄りの死亡率は最も高かったのである。続けてニシムラの戦後生まれが方言を使えないのは家庭に年寄りがいなかったことも一因であったと思う、と興味深いことを口にした。

 ■失われた3期上までの先輩 

 ニシムラ出身の昭和22年生の知人にどうなのか尋ねてみた。するとそういうこともあったかもしれないと答え、次のように話した。ニシムラに同期生が8人いたが、どの家にも年寄りはいなかった。加えて当時の標準語励行運動の空気もあり勢い家庭で方言を使う頻度は減ったのだろう。

 でも自分の場合、一番の要因は年の近い先輩がいなかったことだと思う。ニシムラには3期上までの男の先輩は1人もいない。マラリアで死んだのだ。少年期に年の近い同性の先輩の影響は大きい。他ムラの同級生が先輩たちとヤシガニ捕りに行った話などするとうらやましかった。学校は方言札などで厳しく方言を取り締まったが、帰宅後の先輩を交えての遊びの場では心置きなく方言を使っていたようだ。ニシムラではそういう交流がなかった分、方言が身に付かなかったのではないか。

 先の戦争体験記録の戦没者名簿を開いてみた。そこには知人の三つ上までのニシムラの男児の名前もあった。昭和20年生3人、19年生8人で、死亡時年齢は0歳から1歳であった。知人がまみえることのなかったニシムラの年の近い男の先輩たちである。

 ■戦争と平和をどう伝えるか

 死亡率の最も高かった年寄りと乳児と方言継承のひずみ。戦争の落とした一つの影と言えないか。方言に限らずかけがえのない人命を失うことはかけがえのない何かを失うことだろう。

 今の子どもたちは戦争を自分とは無縁のもの、別次元の出来事と思っている節があるとTVで話していた。早急に有効な対応が求められるだろう。戦争は人ごとではないこと、平和は築き上げるものであること、戦争はこの上なく愚かしいものであること、戦争体験者が口にする「地獄」という言葉は決して言葉のあやなどではなくその通りであったこと等々。

 そういう真実に向き合わせるべく子どもたちにどのように働きかけるか、どのような手だて、取り組みが有効か。学校、家庭、社会、行政に突き付けられた課題だろう。難しくて効果がおぼつかない、見通しが立たないというのでは大人としての責任放棄だろうし、あまりにも危険だ。

 きょう23日は73回目の慰霊の日。県内各地で戦没者の追悼式が行われ、県民が戦争で犠牲になった多くの人々の冥福を祈り、恒久平和を誓う。

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