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甘藷の未来に光を当てるか「宮農7号」の発見

新品種開発への期待

 ■命を救った芋は上座に

 昨日は旧暦の1月1日、旧正月であった。八重山では旧正月を祝う風習は姿を消し、神行事のなかでしか生きていない。

 石垣市民会館では市主催の生年祝賀会が行われ、お年寄りに頌状と記念品が贈呈された。公民館や老人福祉施設でも生年祝いが催された。

 後期高齢者たちは子供のころから戦争という不幸な時代を必死に生きてきたひとたちだ。「命があるのが不思議なくらいだ」という老人のことばには千金の重みがある。そして、話題になるのが戦中戦後の食糧についてだ。

 米は口に入らず、甘藷(かんしょ)は親指ほどのもの。蘇鉄の実や幹を削り、毒を抜いてたべた。野草、地のり、カタツムリ、食べられるものはなんでも口にした。今ではとても口にすることなどできない。味はまずいが、実が大きくて空腹を満たすのに1個で十分だったという「バカー」という名前の芋、それとは逆にあまりにもおいしいので誰にも言うなということから名前がついたという「インナヨー」。もちろん正式な品種名ではない。

 「沖縄100号」「宮7号」という芋も戦後の食糧難を救った。芋は五穀に入らず米より低く見られているが、芋がなければ生きてこられなかった。上座に祀(まつ)るべきものだ。という年寄りのことばにはなかなかの説得力がある。

 ■中国から導入された甘藷

 先日、戦後の食糧難を救った「宮農7号」と思われる甘藷が九州沖縄農業研究センターなどによって黒島で発見され話題となっている。

 「宮農7号」は1947年に宮古民政府産業試験場で育成され、全県的に普及したといわれる。八重山では宮7号と呼ばれた甘藷であろう。肌が赤く中身が黄色。特徴からして宮農7号にほぼ間違いないと思われる。

 甘藷は1605年、中国・福州から野国総官が導入した。宮古ではそれより先に1597年に砂川親雲上が、八重山では1694年中国に漂流した西表首里大屋子波照間高康が中国から持ち帰った。

 中国からもたらされたので、唐芋(トーム)とか蕃藷(ハンス)と呼ばれた。導入された当時は赤皮に白い身、白皮に白身、赤皮に黄身の品種があったようである。

 石垣ではアッコンというが、伝来当時の甘藷の形容が赤のためについた名前であろう。

 沖縄から薩摩に渡り、カライモ(唐芋)と呼ばれたが、薩摩を経由して全国に普及するにしたがってサツマイモという名称になったといわれる。リューキューイモ、ジキイモ、という琉球系を指す名前の甘藷もあるという。

 八重山では甘藷の普及によって食糧事情が好転し、人口も1706年の9819人から1771年の大津波時には2万8992千人と65年間で約3倍に増加している。

 ■古品種は開発の原点

 沖縄にはどれだけの品種が栽培され、消滅したであろうか。カナアッコン、アーパアッコン、マラゲアッコン、トマイクルー、キンアッコン、ウラーンダー、クラガー、トゥマイクルー、ナガハマー、ユナバルーの名前が伝わっている。

 古文書に白保芋の記載がある。残念ながら現物は残っていないだろう。それでも、「宮7号」のような、古い品種が発見されれば、自然災害や害虫に強いことが証明され、それから遺伝子を取り出し、将来、新しい品種の開発に役立つはずだ。

 黒島の片隅でひっそりと生き延びていた甘藷が甘藷の歴史に新たな一ページを加えることを期待したい。

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